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プロフェッショナルの新・視線/第6回

 

「食べる」という行為自体に面白さを感じる
(前編)

 

久住 昌之(くすみ・まさゆき)

 

マンガ家・ミュージシャン
1958年生まれ。法政大学社会学部卒業。美學校・絵文字工房で、赤瀬川原平に師事。1981年、泉晴紀氏と組んで「泉昌之」名でマンガ家としてデビュー。実弟の久住卓也氏と組んだマンガユニット「Q.B.B.」では、1999年に『中学生日記』で、第45回文藝春秋漫画賞を受賞している。谷口ジロー氏と組んで描いたマンガ『孤独のグルメ』は、2012年にテレビドラマ化され、season8まで放映。劇中全ての音楽の制作演奏、脚本監修、最後にレポーターとして出演もしている。ミュージシャンとしても年間60ステージ以上をこなすなど、マルチに活躍。

 

 

■ 「みんなに」ウケる作品を作ろうとは考えていなかった
■ 学生のころから「食べる」ことへの興味があった
■ 行動することでつながりが生まれ、広がっていく
■ 食文化が違っても食べる行為は同じ

1994年に連載がスタートしたベストセラーコミック『孤独のグルメ』(作画・谷口ジロー)や『花のズボラ飯』(作画・水沢悦子)などの原作者で、「食マンガ」のヒットメーカーとして知られるマンガ家の久住昌之さん。そのアイデアは、どのようにして生まれているのでしょうか。

 

「みんなに」ウケる作品を作ろうとは考えていなかった

――主人公・井之頭五郎が、仕事の合間にふらりと立ち寄った店で、一人食事と向き合う『孤独のグルメ』は、テレビドラマもseason
8を迎えるほどの人気シリーズとなっています。なぜ「グルメ」を題材に、「一人飯」というニッチなジャンルの作品を描くことになったのですか?

そもそも1981年のデビュー作が『夜行』という、男が夜行列車に乗って一人で駅弁を食べるというマンガでした。しかし、グルメや食べ物に興味があったわけではなく「食べる」という行為そのものが面白いなと思ったのです。

 

例えば、僕はカレーを食べるとき、ルーとライスの一方が残らないようにバランスを考えながら食べたりしちゃうんですよ。幕の内弁当をどの順番で食べるかを悩んだりとか、そういう自分の内面の“ナサケナサ”を大真面目に描くマンガがあったら面白いと思っただけなんです。

 

「ニッチ」なんて言われますが、そんなことは考えたこともありません。マーケティングとか戦略みたいなものは性に合わない。自分が「こんなマンガがあったら面白い」と思ったとき、そんな作品がまだ世の中になかった。そして僕と同じように面白いと思ってくれる人が世の中に多少はいるんじゃないかと思いました。だから描いたというだけです。最初は、どうやったら売れるだろうとか、考えもおよばなかったですね。

ニコライ・バーグマン氏

大衆にウケるマンガや売れるマンガを狙って描ける、選ばれた天才はいます。言ってみればプロ野球選手のようなもので、幼少期から抜きん出た才能を持ち、プロを目指してひたすら描き続けてきたような人たちです。僕は、絵はうまくないし、「みんなに」ウケるものは描けない。それは22歳のデビューの時点で自覚していて。でも、だからこそ「売れなきゃ」なんて力まずスタートできたともいえます。

学生のころから「食べる」ことへの興味があった

――マンガ家を目指されたのは、いつごろだったのですか?

 

「美大に行きたい」と思ったのが高校2年になってからでしたが、担任に「遅い」と言われました。それで普通の大学に進学。でも美大的なところに行きたいという“アコガレ”はあって、親に頼んで週に1回、「美学校」に通わせてもらいました。東京・神保町にある私塾のような学校だったのですが、昼の実技と夜の講義の間に、1時間夕食休みがありました。僕はそのとき近所に食べに出ていたんです。

 

一人で食べる面白さに目覚めたのは、このときです。『孤独のグルメ』の原点ですね。高校卒業したばかりで初めて来た街で、右も左も分からない。でも個人店のラーメン屋さんやカレー屋さんなど色々あって、入ってみれば、大人が一人で楽しそうに食べている。ああ、こんな世界があるのか、と思いました。

 

あるとき、カレー屋にサラリーマンが二人連れでフラッと入ってきて、ポツリと「二つ」とだけ注文。あとは待っている間も、カレーがきて食べ始めてからも、二人とも無言でした。すると一人が小声でポツリと「今日、肉多いな」と(笑)。そうしたらもう一人が低い声で「そうすね」。会話、以上(笑)。で、最後は「行くか」。なんか、笑っちゃいました。真面目な大人の男たちの、食べている間の頭の中。もうすでに僕のマンガですね。

 

デビューは、美学校で知り合った泉晴紀さんとの合作(「泉昌之」名義による原作・久住昌之、原画・泉晴紀)です。当時の流行とはまるで違う、暗くて硬派な泉さんの絵で、「肉、多いな」「そうすね」みたいなバカバカしいマンガを描いたら面白いんじゃないか。そう思って原作コンテを作って泉さんに見せたら、意外なほど彼は面白がってくれて、描いてくれたんです。

 

泉さんは意気揚々と、僕は半信半疑で、できた作品を出版社に持ち込みましたが、「(この作品には)なんにもない」とケチョンケチョンに言われました。一人だったら、あそこで心が折れて、マンガ家の道は諦めていましたね。二人だったから、帰りに飲んで「あいつは全然分かってない」と笑えた。だからその後も他の編集者に見てもらえて、デビューできた。読者の反応も様々でしたね。

行動することでつながりが生まれ、広がっていく

――編集者の反応がよくないことに焦りはありませんでしたか? どうやってその後の道を切り開いたのでしょうか?

当時は大学生だったので、「これで売れなきゃ後がない」というようなひっ迫した思いはありませんでした。ただ、どんなに地味な場所であれ作品が世に出ることで、色々な人とつながりが生まれ、様々な仕事につながっていったことは確かです。

 

例えば、僕は大学内でバンド活動をしていたのですが、友人の兄に小劇場の劇団の人がいて、学祭に演奏を見に来てくれたんです。で、ギャラは出ないけれど、劇中音楽の演奏をしてもらえないかと言われました。喜んでやったのが気に入られて、作曲も依頼されるようになりました。そのうちに僕が美学校に行っているというので、チラシのデザインをやってみないかと言われました。それでできたチラシを見た別の劇団の人から、またポスターを頼まれたり。

 

美学校の近くにマンガ雑誌『ガロ』の出版社がありました。当時、そこにはイラストレーターとしても売れ始めていた南伸坊さんが、編集者として勤務していました。それで美学校の夜の授業帰りに、一緒に飲んでいたら「久住はジャズを聴くよね? 俺はジャズを聴かないのにジャズ雑誌で似顔絵を描いていて、ツライんだよ(笑)」って、僕のジャズメンの絵を、その雑誌に紹介してくれたんです。

ニコライ・バーグマン氏

その後、マンガでデビューしたら、イラストの仕事をもらった雑誌の編集者が「久住さん、お話も作れるんですね? うちで文章の連載してみない」と声をかけてくれました。ホントに、小さく狭く地味ですが色々とつながっていくんです。

 

今は何でもネットで調べられるけど、モニターを眺めている間、何一つ生み出していないわけです。自分で手を動かして、何か形にして出さないと、新しいつながりはできないと思います。

食文化が違っても食べる行為は同じ

――94年には『孤独のグルメ』の連載が始まり、今や世界10カ国に翻訳されています。食文化の違う国々でも受け入れられているのはなぜだと思いますか?

 

最初はイタリアで翻訳されたのですが、僕も正直「イタリア人に高崎の焼きまんじゅうの味なんて分かるはずないよね」と笑ってました。でもそれは完全な偏見でした。あるときイタリア版『孤独のグルメ』で日本語を覚えたという熱心な読者のイタリア人と一緒にお酒を飲んだんです。そうしたら彼は「焼きまんじゅうの味はもちろん分からないけれど、ぜひ食べてみたいと思った」と言うんですよ。ハッとしました。自分だって、中東かどこかの見たこともない料理をテレビで見て「うまそうだな」となっているじゃないか、と。

 

人は、他の人が食べている様子がおいしそうだと、食べてみたいと思うんです。それは文化の違いなどを、軽々と越えるんですね。『孤独のグルメ』の場合は、谷口ジロー先生の絵が、国境を越えて、圧倒的においしそうだったということですね(笑)。

 

――韓国や中国では、テレビドラマのシリーズからの影響が大きいようです。

 

数年前に韓国人の青年が、「韓国では一人客は店主に嫌われる。あまりお金を使わないから」と話していました。でも去年、韓国に行ったとき「最近はみんな家でドラマの『孤独のグルメ』を見ながら、店で一人で食べる練習をしています」なんて話を聞いて、笑いました。韓国もだんだん変わっているのだと実感しましたね。『孤独のグルメ』だって、マンガの連載当初は、牛丼屋や立ち食い蕎麦屋で、一人で食べている女性なんてほとんどいなかった。今は普通にいますよね。

 

中国・上海に行ったときは、「久住昌之&孤独のグルメバンド」でライブをやったのですが、500人も入る大きなライブハウスにお客さんがぎっしり来てくれました。曲の合間に、五郎の真似をして「こんな演奏してたら、腹が」と言ったら、観客が「減った!」と声を合わせたのには、本当に驚きましたし、嬉しかったですね。

 

コロナ禍でそうした演奏活動もすっかり今は停止していますが、そんなときだからこそできたこともあります。

 

(後編に続く)